秋の行政事業レビュー続編:「研究成果」と「科学の成果」は全く別物であることがわかった件。

1つ前に自分の書いた記事「秋の行政事業レビューで心臓CGを「ろう人形館」のような「ものまね」だと慶應教授に批判された件。」が、だいぶ反響がありまして、大学の先生方をはじめとして様々な意見やコメントを頂くことが出来ました。Twitter、Facebookでも多岐にわたる反応がありまして、とても勉強になりました。

ただ一方で、「えっと、そこ僕が挙げた論点じゃないんですけど。」とか「いや、そういうことじゃないんだけどな。」と思えるものもたくさんあって、僕が意図した部分と違うところで伊藤公平先生に対する批判が出てきてしまったことは先生に対して申し訳なかったと思っております。

前回の記事を書いた後、物理系出身の知り合いや、いまも物理学者をやっている知り合い、情報理工系の先生などと今回の件について直接意見を伺えたりも出来て、ぜひ共有しておきたいと思い、再び長々と文章を書いてみます。

僕が以下の伊藤先生の発言で、「ちょっとそれはあまりにもひどいのではないか。」と思った点は2点。

また、文科省の今日のご説明にもありましたけれども、科学的な素晴らしい成果をもっと論文も含めてダイレクトに発表された方が良いのではないかと私は昔から思っています

何かその、動く心臓を見せるのが悪いとは言えませんけれども、それがいったいどういう科学的成果なのか全くわからないですし、何かその、ろう人形館に行って、本物のアートでもなく、何か凄い技術をもって何かものまねをしたものを見せられているようなところがあるので、そこらへんは科学の迫力ということで示して頂いた方が良いと考えています。

1点目は、前回の記事のタイトルの通りで、心臓CGを「ろう人形館」のような「ものまね」だと言われたこと。

もう1点目は、この映像も十分に「科学的な素晴らしい成果を」「科学の迫力ということで示して」いるのではないかということ。

僕の主張は1点目のほうが強いのですが、でも実際には2点目のほうがとても大事で、色々考えさせられるものであることがここ一週間でとても良くわかりました。と同時に、2点目については僕が大きな誤解をしており知識不足だったこともわかりました。それが今回のタイトルなのですが、やはりまずは1点目から。

と、その前に1点補足しておきたいのですが、伊藤先生の7分近くのご発言は、僕が取り上げた点以外は極めてニュートラルで的確なものだと思っています。まぁ今頃言ってもそんなの色んな人たちからのコメントを受けての付け足しだろと言われてしまうかもしれませんが。

それから、基本的にこの発言は事前に相当な時間をかけて京の成果や課題に目を通されて、時間内に収まるように相当に熟考されたものであろうということも容易に想像できます。

その中で、1点目の「ろう人形」云々の下りは、おそらくあの行政事業レビューという硬い雰囲気の中で場を和ませるためにと言いますか、そんな感じで思わず出てしまった言葉のような気もします。なので、そこまでこの一言に対してあーだこーだ言わないほうが良いというのも理解しているつもりなのだけれども、でもやっぱりここは良くなかったと思う

まず、「何かその、ろう人形館に行って、本物のアートでもなく」ですが、これ聞いたら世の中のろう人形職人の方々が怒ると思いますろう人形は世界中で人気であり、立派なアートであり、決してネガティブな意味でのものまねではありません(※ここで言う「アート」というのは一般的な文脈での意味であって、芸術分野での狭義の意味での「アート」になるのかどうかまでは僕にはわかりません)。ろう人形好きな人の中でも怒る人がいると思います。僕も個人的に怒ります。但しこれはUT-Heart映像とは直接関係ない部分です。

次。「何か凄い技術をもって何かものまねをしたものを見せられているようなところがある」に関しては、「凄い技術をもって」と評価はしているものの、やっぱり全体としてはだいぶネガティブな発言でありまして、ここについては、「研究成果のデータを忠実に映像化したものであり、ネガティブな意味での「ものまね」では断じてない」と主張したいです。

ネガティブな意味での、と書いたのは、「ものまね」という言葉にも文脈によって2つの意味があると思っていて、僕は個人的にものまね番組が好きで、立派なエンターテイメントだと思っているのですが、一方で、「パクリ」という超ネガティブな意味でこの言葉が使われることもあって、ここではネガティブな意味で使っていると思います。

僕が前回の記事で一番言いたかった部分はここです。ものまねではない。

ここまでが1点目。でも、次の主張で僕は大きな誤解をしました。誤解と言うよりは、前提知識がなかったので発言の意味を理解できなかった、と言うほうが正しいかもしれません。そしてこれが2点目で、且つ今回のメインの話題です。

前回の記事の中で、僕は

「科学的な素晴らしい成果を」「科学の迫力ということで示して」いると思うんですよね。十分示している、と思う。

と書きました。これが僕の大きな誤解でした

それがわかったきっかけは、Facebook内でのとある方とのやり取りだったのですが、「(偉大な)医学的成果であっても科学(的成果)にはなっていない」「(偉大な)工学的成果であっても科学(的成果)にはなっていない」ことが実はたくさんあります

…と聞いて、僕は最初「はぁ?何言ってるの??」と思いました。そう思って反論したのですがイマイチちゃんとした答えを頂けなかったので全然納得できなかったのですが、上述の物理系、情報理工系の方々と話をしてみて、丁寧に解説をして頂いてやっと腑に落ちました。

当初僕が全然納得できなかった理由は、医学部6年間の教育の中で「医学はサイエンスとアートである」と何度も言われ続けてきたから。おそらくこれは東大以外にも日本全国どこの大学の医学部でも言われていることだと思います。ひょっとしたら、この文脈における「サイエンス」と「科学」とでは意味合いが違う…のかもしれないけれども、少なくとも僕は先生方がこの2つの言葉を分けて使っているとは到底思えませんでした。だから、「医学は科学」だと思ってきた

試しに「医学 サイエンスとアート」で検索するとたくさん出てくるので探してみてください。「医学はサイエンス(科学)」と書いてある文章もたくさん出てきます。ん、でもこれひょっとすると医学は科学を基にしている、という意味合いなのかなぁ。医学の偉い先生方、どのような意味で使われていますか??

でも理学の人たちや割と多くの工学の人たちからすると、僕が理解できないことが理解できない、ということがわかってきた。寧ろ医学部が科学の意味をだいぶ医学部特有の意味で使っている気さえしてきた。医学の世界の皆さん、ぜひご意見聞かせて下さい。

異なる世界で過ごしてくると、同じ言葉でも捉え方が全く異なる、ということがよく起こる。「医学だけれでも科学じゃないことなんてたくさんあるじゃん。当たり前でしょ。

で、物理学者の知り合いと話していて出てきた言葉がとてもわかりやすかった。

超ざっくり言うと、科学とはブラックボックスを人間が理解できる形で解き明かすことである

もちろんこれは日常生活で使われている「科学」という言葉とは明らかに違うもので、「(最)狭義の意味での」「科学」という修飾語を伴うときの意味だ(でもひょっとしたら非生物系の理系アカデミックの人たちであれば誰もが当たり前に共通認識として持っている「科学」、なのかもしれない。ぜひ生物系の方々のご意見も聞いてみたいところ)。

(最)狭義の意味での科学について、「○○宣言に記載されている文章を科学の定義とする」みたいなものはなくて、論文を書いていくうちにトレーニングされて、徐々に共通認識として、感覚として掴んでいくものだそうだ。逆に言えば僕がこのあたりの感覚を全く持っていないのは、僕自身が学術論文を書くトレーニングをこれまでしてこなかったことが原因なだけかもしれなくて、そのあたりも気になるところ。

で、そのようなトレーニングを積んでいる人たちに裏を取ったものが、例えば以下のようなものだ。ここから先は(最)狭義の意味で「科学」という言葉を使う。

「難病Aに対して薬Bが顕著に効くことが発見された。」
これは医学的には間違いなく偉大な成果だ。今まで治せなかった難病Aに対する希望の光が見えたのだから。
でもこれは全く以て科学的成果ではない。と言うとたぶんそれなりに多くの医学の人たちが怒ると思う。うん、僕も一週間前だったら間違いなく怒っていた。
でも上記の定義に当てはめると腑に落ちる。だってこれはブラックボックスを何も解明していない。
「こうしたらこうなった。」

「薬Bを1日n回、1回x mg使うと難病Aに対して最も効果が高いことが判明した。」
これも医学的には偉大な成果だけれども科学的成果ではない
「こうやったら最適でした。」

「難病Aでは薬Bが、疾患特異的に発現しているタンパク質Cを司る遺伝子DのプロモーターEに結合し、その働きを抑制していることがわかった。」
これは紛れもない科学科学的成果
「なぜなのかがわかった。」=「ブラックボックスを人間が分かる形で解き明かした。」

で、ここからは状況によると思うのだけれども、「難病Aをどうにか治したい!」というモチベーションで研究を始めた医者にとって、科学的成果は通過点でしかなくて、治療できたかどうかの方がたぶん大事。もちろん、治療方法を確立するためには科学的成果が必要(ここでは、具体的な作業機序が明らかになること)なのだけれども。だから、「研究成果」といったときに相手によっても文脈によっても、何を強調すべきかは変わってきて、いつでもどこでも「科学的成果」こそが最重要、とはたぶんならない

医学や工学は、寧ろ研究成果としてブラックボックスを増やすこともあるのではないか、というのも、同じ知り合いと話していて話題になった。医学とも工学とも異なるけれども、機械学習系とかその例かもしれない。

…と、いうのが、今回のタイトル「「研究成果」と「科学の成果」は全く別物であることがわかった件。」です。

さて、以上の知識で伊藤先生の発言をもう一度見てみると、非常に納得できる。

何かその、動く心臓を見せるのが悪いとは言えませんけれども、それがいったいどういう科学的成果なのか全くわからないですし

同時に、僕が以下の文章で完全に誤解していたこともこれでわかる。

「科学的な素晴らしい成果を」「科学の迫力ということで示して」いると思うんですよね。十分示している、と思う。

このUT-Heart映像は「科学的成果」を表していますか?と聞かれれば、表していない。っていうかだって僕がそうなるようにはストーリーを組み立てていないし、映像制作時の目的も、「科学的成果」の説明ではないのだから。

見ての通り、この映像は、基本的には心臓という、誰もがある意味最も身近に持っているのに実はほとんどそれについて知る機会がないものについて、心臓の魅力や奥深さを正しく楽しく感じ取ってもらう、ということを軸にしている

でも、それだけだと本当にただの教育ビデオになってしまうので、京(…とまではいかなくても、少なくともスパコン)が無いと不可能だったんだよ、ということが感覚だけでも伝わるように、映像の最初のほうで、心臓を構成している四面体要素を全部バラバラに分解して表示したり、後半では筋線維の方向を全て表示したりというような表現を行った。

そして、少しでも研究成果、研究の意義が伝わるように、映像の最後にほんの少しだけではあるけれども、DORVの術前、術後シミュレーションの事例を紹介して、実際の症例でも使われているんだよ、という偉大な医学的成果を示している

でも、先ほどから言っている(最)狭義の意味での科学、という側面から言えば、科学的成果は紹介されていない。
シミュレーションで計算をして色付けを行わなければ、動静脈血がどう混じりあっているかを人間の目で見てわかるように可視化することはたぶん出来ないと思うのだけれども、それが見えて「おぉぉぉぉー!」となってもそれだけでは「科学的成果」にはならない。

が、これも文脈次第なところもあって、「カテーテル検査で、あるDORVの心臓内のSpO2(酸素飽和度)を測るといつもここではこれくらいの値、ここではこれくらいの値になって、それがどうしてなのかわからなかったのだけれども、シミュレーションで血流計算をしたら動静脈血がどう混じりあうのかが分かったので、SpO2の測定値がこうなる理由を解明できた」と書けば科学っぽくなってくる。「っぽくなってくる」と書いたのは、これだけだとあくまでもシミュレーションなのと、ある心臓についてだけなので、それ以上のことが分かるかどうかが怪しいから。

それくらい、文脈依存なところもあるし、学問によって科学という言葉の捉え方も変わってくる。

だから、

それがいったいどういう科学的成果なのか全くわからない

というのは物理が専門の先生からすれば当たり前すぎる感想であって、でも僕も、そしてTwitterなどでコメントして下さった結構な数の方も完全に誤解していた。「この映像を見ても科学的成果がわからないなんてどうにかしている!」みたいな意見は全て的外れということになる。「スパコン京じゃないと実現出来ないことが説明できていないのでは?」というのもこの文脈に対する答えになっていない

もちろん、国費を京に投入すべきかどうかの評価軸として、「京でないと実現できないことなのかどうか」はとても重要だけれども、伊藤先生のこの文脈における指摘は(たぶん)そこではない。

これで大体伊藤先生の意図は読み取れたように思う。

当然、スパコン京の評価軸は科学的成果だけではなく、例えば伊藤先生ご自身も、ご発言の前半のほうで、(計算速度1位というのは科学的評価には全くならないけれども)計算速度の点を評価されていらっしゃいます。

それに加えてさらに伊藤先生は、「これまで科学計算結果がノーベル賞を取ったことは無く、実験結果、或いは紙と鉛筆による理論結果に対してだけだけれども、これからは純粋科学においても計算機の寄与がどんどん大きくなってきている」と非常にポジティブな発言をされていらっしゃって、これからの科学の在り方についても提言されています。

山中俊治先生のコメントはそのことを指摘されている(…はず)。

ちなみに、「科学的成果がわからないから予算付けなくてよいでしょ」みたいな話は伊藤先生は1mmもされていません。

で、せっかくなので伊藤先生の後半のほうのご発言に関して、これは完全に考え方の違いに依るものなので、どちらが正解という類のものではないのだけれども少し言及しておきます。

伊藤先生はご発言の後半で「一般的な説明においてはもっと科学的な成果を言ったほうが良いと思います。」と仰っているのだけれども、これは完全に時と場合による、と言いますか、一般的な説明で科学的な成果を言うのはとても難しいと僕は思っています。もちろん、科学的な成果を伝えられるのであればそうしたほうが良いに決まっているし、もし自分が科学者であれば、おそらく自分も科学的な成果をストレートに伝えたい、と思う気がするのだけれども、それは科学者による科学者のための説明であればわかりますが、一般的な説明という状況では科学的成果を直接話すのはもろ刃の剣のような気がしています。と言いますか、このあたりの絶妙なバランスを取ることが、科学コミュニケーションの腕の見せ所ではないのかと。

だって、例えば僕は物理の知識が全く無いので、「ヒッグス粒子」というものが物理の世界においてどれほど重要なのか1mmも想像がつかない。僕も含めて多くの人は「ノーベル賞を受賞したから、ヒッグス粒子の発見はどうやら凄いらしい」と思っているはず。明らかに、本来は「ヒッグス粒子の発見が偉大な科学的成果だからノーベル賞を受賞した」のだけれども(今までの文脈だと「発見した」は科学的成果にならないように感じるけれども、このヒッグス粒子に関する成果は、より正確には「粒子の理論的発見と、実験による確認」であって、単に発見しただけではなくて、実験的な確認を通して初めてヒッグスの理論が机上の空論でなくなり、これまでこの理論を使って明らかにしたと思っていたブラックボックスに確信を持った、というような雰囲気なのだと物理の研究者からコメントを頂いた)。

ある科学的成果を説明するためには、もの凄く大量の知識や科学者が長期間に及ぶトレーニングによって得ることが出来た感覚が必要なことも結構あって、それを短時間で一般の人たちに説明するのは流石に無理がある。もちろん、科学とは無関係な世界で生きている人たちにも感覚的に何となくわかる、わかったような気になれる科学的成果もあるのだけれども、それはそんなに多くないと思う。

このあたりは科学コミュニケーションど真ん中の話題だと思うので、ぜひ科学コミュニケーションに携わっていらっしゃる方々の意見を聞きたいです。

と、これで終わりにしても良いのだけれども、最後に、知り合いの物理学者と話したり、これからの科学の在り方に対する伊藤先生のご発言や、山中俊治先生のコメントなども受けつつの僕の完全な私見をつらつらと。たぶん、多くの科学者からは反感を買うのだけれども。

科学とはブラックボックスを人間が理解できる形で解き明かすことである」は、「人間が理解できる形で」というのが1つ大きなポイントで、人間が理解出来なければ科学ではない、というのがいまの「科学」の捉え方のようです。

で、その知り合いの物理学者に確認したのだけれども、例えば主成分解析みたいなやつは、次元が多すぎて「人間にとって」よくわからないものを「人間にとって」理解しやすい形にするためのツールであって、必ずしも本質的なものではない、と。

で、マスコミその他でも最近言われていますが、近い将来人間よりもコンピュータのほうが知性が上を行くことは間違いなくて、そうなると今まで扱えなかった次元のものをコンピュータが処理してアウトプットを出すことが出来るようになるわけです。

人間の知能を超えるので、コンピュータ以外のどんなツールを使っても人間が理解できる形にならないこともどんどん増えてくる。

どうして正しいのか最早人間には到底理解できないのだけれども、でもコンピュータに状況を伝えると出力される結果が例外なく正しい、みたいな。

新しいブラックボックスを次々に産み出せてもそれを「科学的」に解明できない。そんな状況です。割と自然に思い浮かぶ発想だと思う。

そうなると、前回の記事でも紹介した、以下のコメントが示唆していることがわかりやすくなると思います。

だから、「科学」そのものの方向性や定義が100年後には変わっていると思うんですよ。

いままで原理がわからなかったものが、コンピュータの発展により、コンピュータの力を借りることで解明できた、というのがこれまでかもしれないけれども、だから今後もそうやって原理が解明され続けていくかと言うと、もちろん続いてはいくのだけれども、割合的にはむしろ逆な気がしていて、原理がわかり得ない新しいブラックボックスのほうが増えていって、でも極めて正確なアウトプットを弾き出すブラックボックスだから、みんな使っていきましょうね、となる気がしています。


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